ギフト
風邪ひいちゃったよバカヤロウ( ¯−¯ )
ピンピンしてるけど、咳の音が重くて小汚い。
ゲグォッホッホッグム……みたいな(なんじゃそれ)。
死にかけの患者みたいな音が喉から出るから、周りがビビって早く帰れ早く帰れの大合唱(笑)
帰りますよ帰りますよ。
なんなら明日も休んでやりたいわよ。
でも、仕事はあるしやっぱり行かなきゃいけない。やだなぁー!
ああ、どっかに私にぴったりの仕事はないのかー!
このセリフ、これまで一体何回言ったことか。
どこかにきっと私にぴったりの仕事があるはずだ、いまやってるこの仕事は天職ではないんだー!
と思ってる……というか、思いたいというか。
友達とゴハン行ったり、親に愚痴ったりするときに、たまにそんな話をする。
私以外のみんなが、今の職場はあんたにぴったりだと言う。
たぶん、総合的に見ればかなり合ってるほうなんだと思う。
私も心の中では、実は(条件満たし率80%は堅いな)と思ってる。
たぶん、仕事が忙しいから「イヤだなー」っていう気持ちが「この仕事向いてないわ」っていう出口に向かっていくんだと思う。
そこにあるのは「天職なら、イヤだなんて思わないはず」「今の職場はイヤだ」「じゃあ今の仕事は天職じゃないんだ」という三段論法(笑)
大前提からして怪しい。
でも、やっぱり心のどこかに「天職への憧れ」がある。
自分はこの仕事をするために生まれてきたんだ!と感じられる仕事
とか
休みの日も仕事場に行きたくて行きたくて震える!人間マナーモード状態!
とか。
いやー、一切感じたことないわ(笑)
そもそも天職って何?
好きなこと?
でも、職というくらいだから稼げなくてはならない。
好きなことは仕事にした途端につまらなくなる、とか言うし、好きであることと稼げることは直結しないから、やっぱり好きなだけでは天職にはならないんだろう。
逆に、好きでも何でもない分野にものすごい適性があったとしたら、それは天職なのか?
たとえば私に秘められし卓球の才能があって、愛ちゃんとか目じゃないほどの素質を潜在させていたとしたら、それは天職になり得るの?
いやー、やっぱ違う気がする。
ってことは、天職とは
⑴そもそも好きな分野であり
⑵お金がある程度は稼げて
⑶自分自身が「私にピッタリだ!」と自覚できている
職業である、ということになる。
そんなのに出会えることは、もしかしたらすごくすごく低い確率なのかもしれない。
私はずーっと、将来なりたいものがこれといってなかった。
学校大好き人間だったから、成績も割といい方だったから、何より都会で一人暮らしがしてみたいから、という程度の動機で、漠然と大学受験を決めた。
運良く(運良くとしか言いようがない)、第一志望の大学に合格した。
しかしそこは、東京の私大だった(笑)
貧乏な実家に、学費と生活費が重くのしかかる!
さらに、ひとつ下には弟がいる!
弟も東京の私大に行きたいと申している!
どうする、はまぶき家!?
経済感覚が飛び抜けて優れた私の母は、東京の私大なんてひっくり返っても有り得ない状態から、なんとか資金を回してくれた。
母がいなかったら大学なんて夢のまた夢だったはず。ありがたや……。
そして母は、入学時に私にたった一つ義務を課した。
それは「絶対に留年はせずに4年で卒業すること」。
留年する分の資金はさすがに工面できないから、と。
私はせめてそれだけは絶対守ろうと誓った。
プラス、もう一つだけ自分に義務を勝手に課した。
それは「大学に行った証になる、何らかの形を得ること」。
4年間高い学費を出してもらうのに、何も手元に残らないのでは申し訳ないと勝手に思って。
資格でも記録でもなんでもいいから、客観的に「大学に行かせてよかった」と思えるだけの形をゲットして卒業することを自分に課した。
その「形」は、とりあえずなんとなく「教員免許」に決めた。
そんなに珍しい資格ではないけど、これだって大学に通わなければもらえない(正確に言えば、教職課程を満たさなければ、だけど)。
形としては十分だと思った。
教職課程は4年間ずっとある上に遅い時間のものが多くて、取り続けるのは正直大変だったけど、4年生になり一応は取得見込みが立った。
なので、教員採用試験を受けてみることにした。
大学がある東京都と、地元の県と。
特になりたいものもないままここまできて、教育実習で劇的な目覚めがあるかと思いきやそれもなく、淡々と無難にこなしてしまい。
一般企業に入るにしても、4年生の6月を過ぎても就職活動を一切していなかったからもう遅いし。
まあ教員採用試験も形ばかりは受けてみて、どうせダメだろうから、どっかの私立高校で臨時でもしながら、東京ライフを満喫しよー✩
今から思えば、だいたいこんなことくらいしか考えてなかったと思う。
なのに、何故か地元の県の採用試験に合格していた。
……何故!!!?
博打好きの県民性だから??ギャンブルが過ぎるぞ!!
私が教育委員会の重鎮だったなら、せめて1年くらいは臨時教員をさせてみると思うがなぁー。
どこの馬の骨ともわからん、社会の厳しさも知らないヘッポコ大学生を、いきなり「先生」にさせてしまうなんて恐ろしくはないのか?!と小一時間詰め寄りたい。
まあ、でもこうやって私は今に至る。
もちろん、仕事はできる限り真面目にやってる。
頑張ってないわけではない。
結果だって、ちょっとなら出したかもしれないと思う。
先生やっててよかったなー、って思う日ももちろんあるし、楽しいな、充実してるなって思うこともある。
でも、なりたくてなりたくて夢を叶えたわけでもなく、ただなんとなくここにたどり着いてしまっただけなんじゃないか、という「根本の部分の場違い感」がどうしてもある。
それは、10年たった今でも私を「やっぱりここは違うんじゃないか」という気分にさせる。
そうか、これが、私の「別の仕事のほうが向いてるんじゃないか」と思ってしまう気持ちの根源なんだなぁー。
これを書きながら、天職がどうとかっていうのはやっぱり逃げで、本心からそこを追求しようというふうには思ってないんだと気づいた。
この「場違い感」、これが私の不安の元なんだ。
いつになったら受け入れられるんだろう?
この誇れない出自を。
周りの先生方は、先生になりたくて頑張った人たちばかりだ。
何年も臨時をしてやっと採用になった時は泣いたー、みたいな話も聞く。
子供が大好きで、成長の過程にかかわれるこの仕事は天職だと思う、とおっしゃる先生もいる。
そんな先生方を見るにつけ、私の粗末な出自はペラペラと風に吹かれて風前の灯、状態(笑)
子供が好きではない私。
なりたくてなりたくて頑張ったわけではない私。
ただなんとなくここにたどりついただけの私。
こんな始まりに自信が持てないから、もっと言うと「これは自分の意志で決めて進んだ道だ!」とは言いきれないから、いつまでたっても自分のいる場所に、ひいては自分に、自信が持てないんだと分かった。
でも、同時に、それならもう解決することはできないことにもなる。
ということは、あとは、このことを私が受け入れられるかどうかにかかってくる。
始まりはどうあれ、この職業に就いた自分、そしてこの職業だってそこそこ向いてる現実、それをちゃんと受け入れられれば、これからも、やっていけるかも、しれない。
夜の街やナンパから始まった恋人同士だって、幸せな家庭を築いて立派に子供を育て上げることが十分に考えられるようにだ!!
いつまでも粗末な出自を気にすることなく、強みである「ポジティブ」を発揮して、いい加減きりかえていきたい。
生徒に「なんで先生になったの?」と聞かれる度に戸惑って、後ろ暗くて、なんかハッキリ答えられなかったけど、手始めにこれからはこう言おう。
「そうだね、運命に導かれたから……かな。」
ってね!!!!( ̄ー+ ̄)キラーン