所信
新しい自分に出会う
とか
まだ見ぬ自分に会う
とか
いろいろ言い方はあるけど、私、はまぶきもちよは、34歳を迎えてようやく自分に向き合うことを始めようかと思い始めた。
「自分探し」というわけではないけど、34年付き合ってきた自分について、そろそろ一旦の中間報告を上げたくなった感じ。
自分はどんな人なのか、どんな人生を経てどんな自分になろうとしているのか。
わかっているようでわかっていないまま、ここまで来たようにも思う。
以前、『自己とは一つの物語である』という評論文を授業で扱ったことがある。
他者に自己を開示するとき、自分は無意識か意識的かの別はあるものの、自己を一つの物語として語る。
因果関係を整理し、わかってもらいたい自己イメージがスムーズに受け取られるような話の展開を心がける。
そして自己の物語化ができたとき、同時にアイデンティティも確立する。
アイデンティティの確立には、自己を物語としてまとめることが必要不可欠である。
的な内容だった。
私は、たとえば異動があったあとや、初めてのクラスに授業に行くとき、初対面の人と会ったときなど、自己紹介でどういうイメージを打ち出そうかと「考える」ことがある。
考える時点で既に「自分」がブレているというか、明確な自己物語がないということになるのかもしれないけど。
何キャラでいこうかな、という言い方は少しあざとい印象になるかもしれないが、若干そんな感じ。
元気で明るい友達系キャラなのか。
生徒の心に寄り添う系キャラなのか。
イベント大好き熱血系キャラなのか。
どんなスタンスで、どんなキャラで向き合っていくのかを、まるで選択するかのように「考える」。
本当は、選択できるものではないのかもしれないけど、つい、してしまう。
私のキャラってどんなの?
私らしさって何?
他者に答えを尋ねる前に、そもそも自分自身の内でさえも「自分はどんな人間なのか」という問いに対する明確な答えは出せていない。
器用貧乏が災いして、ブレまくりの中途半端。
そんな今までの「私」という人物について、そろそろ1度スッキリさせてみたくなったのだ。
バラエティ番組でたまにあるような、再現ドラマのイメージが近いかもしれない。
因果関係の整理をするというか、こういうことがあったから今こうなっているんだ、という前後関係を明確化すること。
その過程を経て残った、自分自身でも納得のいく、整理された「物語」を知ることを通して、自分はこういう人なんだと自分でも知ってみたい。
たとえば、お客さんが来る前に庭の雑草を刈って、庭木の枝も少し整えて、掃除をして…というような。
足し算ではなく引き算のイメージで、自己物語を整理することを、このブログを通して目指したいと思う。
と同時に、実は「文体」の構築も目指している。
語りやすい文体、自分らしい文体を探している途中なのだ。
改行のタイミング。
句読点の有無。
顔文字の使い方。
「ですます調」なのか「である調」なのか。
自分ツッコミ(←って何よ)(←と、こういうやつ)の頻度。
一人称の選択。
考える階層と、最終的に表記する階層の設定。
(笑)を使うか使わないか。
テンションの高さの設定。
言葉遣いの砕け度の設定。
考えただけでもざっとこのくらいの検討点がある。
誰が読んでも私だと分かる文体、は欲張り過ぎなので(誰が読んでも、ってどこまでを想定するのかって話)、せめて自分が読んだ時に「うん、これが私らしい文章の形」と思えるような文体を構築したい。
さくらももこのエッセイとか、山本ゆりさんのブログとか、完璧に自分の文体を持ち、自在に支配することができている人は、もう何を書いたって「自分の文章」になる。
「書いてる内容がオリジナルのものかどうか」はもちろん大前提だけど、「そのコンテンツをどう語りどう読ませるのか」が、今後は絶対大事になってくると思う。
私らしい語り口、自分がより調子よく語れるスタイルを探したい。
自分という物語の成立と、自分の文体の確立。
これを目指して、なるべく頻繁にブログを更新していこうと思う。
もちよ、がんばる!